W e s t S a v a n n a S t o r y
The Story
起業までの『ウエストサバンナストーリー』
①好奇心・島・海外へ
②1万日のターニングポイント
③エンターテインメントの国『アメリカ』
④One World, Many Cultures
⑤Life is an adventure!
⑥West Savanna Story
History of His Story, Mystery of My Story
好奇心・島・海外へ
代表の森淳一郎です。
なぜ今の仕事に情熱を注いでいるのか思い浮かべ、自分の足跡を辿っていったら、10代まで遡りました。
毎年地元の神輿を担ぎ、人が集まる楽しいお祭りが大好きでした。
小学6年の冬、映画『グーニーズ』をみて冒険心に火がつき、未知の世界に興味がわきました。
卒業記念に、みんなでディズニーランドへ行こうとクラスの男子全員に声をかけ、探検気分のオリジナル卒業遠足を企画。スマホもない、SNSもない、SUICAもない、舞浜駅もない時代にほぼ全員、親を説得して参加し、無事帰宅したことで達成感を味わいました。
ジャングルクルーズに乗ってお兄さんに帽子をかぶせてもらい、『大きくなったら船長さんになるんだよ』と言われ憧れたのはこの時です。
中学時代も毎日が楽しく、3年間欠席ゼロ。目黒西シニアリーグに所属し、週末は野球に励みました。中学3年の冬、昭和が終わり、平成が始まった頃、卒業旅行を企画。何社もの旅行パンフレットを見比べ、予算を伝え、卒業式の夜から、バスで志賀高原へスキーツアー。当時もまだ、ポケベルもない、ケイタイもない、自分でお金を稼いだこともない男子11人。卒業式の夜は家族でお祝いが普通かもしれないのに、ウチも含めですが、親が許してくれたことに感謝です。
高校は9クラスもある都立高校に入学し、それまでの倍以上の生徒が通うマンモス校。硬式テニス部部長として部活に励みましたが、行動範囲が広がり、毎年夏は友達と神津島や新島へ。当時の伊豆七島は高校生のメッカでした。
大学では数学の教員免許取得を目指しましたが、難関過ぎて挫折。卒業まで5年かかりましたが、結果、かけがえのない大学生活を送ることができました。それは、ディズニーランドのジャングルクルーズです。アルバイトとして採用され、トータル約5500時間勤務、約40万人のゲストをボートに乗せてジャングル探検。大きくなったら、船長になっていました。
人が楽しみに集まる場所で、楽しみを提供する側に生きがいを覚えたのはこの頃です。
アルバイトにもボーナスが支給され、19歳の夏、初海外旅行でニューカレドニアへ。その後も、プーケット、グアム、ハワイ、バリなど、島旅行を楽しみ、卒業旅行は、ハワイ、マイアミ、ジャマイカ、キュラソー、ニューヨーク。
夏の風物詩と言われた、レゲエサンスプラッシュやジャパンスプラッシュへ毎年行き、祭好きを改めて実感。フェスティバルで心躍るのは、当時の野外フェスが原点です。
新卒で、株式会社シュウウエムラ化粧品に入社、美容界事業部東京支店に配属し、主に都内、長野、静岡を担当。美容インストラクターとして、美容室や代理店にてレクチャーや講習の日々。将来、海外事業部で仕事することに憧れていました。
2000年秋、シュウウエムラとロレアルの資本提携により、海外事業部への夢が絶たれ、海外で、シュウウエムラブランドに携わる方法を考えはじめました。
2001年4月に生誕1万日を迎えることに気づき、そのタイミングでのアメリカ留学を決意。目指すはアメリカのロレアルに入社し、シュウウエムラに配属される計画をイメージ。
実現のために、語学学校で英語の勉強、メイクアップ学校で技術を学び、コミュニティカレッジでビジネスとマーケティングを専攻し、1年間働けるプラクティカルトレーニングビザを取得後、シュウウエムラの親会社ロレアルへ就職、こんなシナリオ達成に向け動き出した20世紀末です。
1万日のターニングポイント
27歳+4ヶ月+約2週間、人は生まれて10,000日を迎えます。
10,000日の誕生日に出発予定でしたが、2ヶ月遅れの2001年6月カリフォルニア州ロスアンジェルスへ。
語学学校では、台湾、韓国、インドネシア、タイ、タヒチ、イースター島、アルゼンチンなど、いろいろな国出身のクラスメイトと一緒に勉強しました。
お互いの歴史、文化、国旗の意味、国歌について発表する機会があり、みんな胸を張ってスピーチしていましたが、ぼくは日本のことをよくわかっていなかった。
自分のルーツ、生まれ育った町や国の事を深く考え始めたのは、恥ずかしながらアメリカの語学学校がきっかけでした。
同年9.11アメリカ同時多発テロが起こり、アフガニスタンに対する各国の姿勢をクラスメイトと話し合うことがありました。戦前や戦時中、日本がアジアの国にどんなことをしてきたのか、クラスメイトから教わりました。
ぼくにとって留学とは、ただ英語を学ぶのではなく、教室という空間に先生がいて、インターナショナルなクラスメイトと意見を交わし学習することに意味がありました。
また、ウエストハリウッドにあるシュウウエムラショップでお店の手伝いや、映画のロケ、モデルの撮影、ウエディングのメイクアップなど経験しながら、バーバンクにあるメイクアップデザイナリーというスクールにも通いました。
翌2002年、南へ約50㎞離れたオレンジカウンティのアナハイムに拠点を移します。アパート情報をリサーチし、初めて自分名義で借りたアパートの住所が、West Savanna Streetです。
エンターテインメントの国『アメリカ』
ウエストサバンナストリートは、2ベッドルーム、2バスルーム、駐車場4台分、プール、ジャグジー、セキュリティゲート付きで月$980という、今では信じられない破格のレント。ルームメイトはすぐ見つかり、4人の共同生活がスタートしました。
また、車で5分の『Café Hiro』でアルバイトをスタート。
2002年3月にグランドオープンした、美食家が集う、美味しいと評判のレストランです。オーナーシェフHiroさんとの面接をよく覚えています。
「『食べる』ことは家でもできる。ただ注文を取り、料理を運び、片づけて、お会計ではなく、お客さんがレストランに足を運んでいただけるのは、楽しい経験をしていただくため」と言われました。ジャングルクルーズでの経験が活かせると確信し、経歴を伝え、採用いただきました。
アメリカのチップ文化はぼくを大きく成長させてくれました。
チップは、お客さんからの満足度評価であり、お会計ごとのチップのパーセンテージが点数のようなものです。
お客さんの名前、好みを覚え、どんなグループか、何を楽しみに来店されたかを察知し、フレンドリーな接客を意識しました。各テーブル、水やレフィルなど必要なものはないか常に気にかけるのは当たり前で、「Excuse me」と声をかけられたら負けというルールを自分の中で勝手に作りました。スタッフとも多くの情報を共有し、研究のためサービスで評判のお店へみんなでよく行きました。一緒に過ごした時間も長く、素晴らしいチームとなり、お客さんもスタッフも楽しい雰囲気で、店内は笑顔であふれていました。
その結果、美味しいだけでなくサービスも評価はいただけたと思っています。
例えば、$100のお会計でチップ$15だった人たちが$20置いて行ってくれるようになり、このようなグループが増え、チップ率が上がります。お金で戻ってくるのはもちろん嬉しいですが、「Thank you」と大きな笑顔で喜んで置いて行ってくれるチップには、莫大なエネルギーが宿っていると感じました。
お店からいただく給料と、毎日お客さんからいただくチップ、同じ価値のUS$ですが、それぞれ別の口座で管理していました。
お店からの給料は2週間に一度。家賃、光熱費、少しの生活費に使っていました。
チップは毎日封筒に入れ、毎週月曜日に銀行口座へ入金。『楽しい』の交換でいただいたチップは、自分が『楽しい』に交換するために使うというルールを作りました。多くの人の気持ちが詰まったこのお金は、ここぞという時に使うと決心。
カフェヒロでの貴重な経験は、その客層にもあります。
地元アメリカ人を中心に、肌の色や宗教が異なるグループ、日本語ができない日系人、アジア系、アフリカ系、いろいろなバックグランドを持つ人たちが来店されました。店内はいつも賑わい、日本のレストランではみられない多様性のある景色が毎日当たり前で、刺激のある日々でした。
2004年、ゴールデンウエストカレッジを無事卒業しました。学んだことを活かす目的で、1年間働けるプラクティカルトレーニングビザを取得。ちょうどその頃、ウエストハリウッドのシュウウエムラのスタッフが一人退職するとマネジャーから知らせがあり、ぼくの採用に向けて動き出してくれました。
カフェヒロでの仕事も楽しく充実していましたが、当初の渡米目的からぶれることなく、思い描いていたシナリオが、本当に実現するのか、ここまで来たのかと、マネジャーからの連絡を待っていました。
正社員として、アメリカでの就労。憧れていた海外事業部ではなく、挑戦の現地採用。
しかし、なかなか連絡が来ませんでした。こちらから電話しても、もう少し待ってという返答が毎回。そして、数ヶ月後にショッキングな連絡が。。。
それは、お店のクローズ。
順調にコマを進めてきましたが、人生ゲームでもあるように、ゴール直前で想定外なことが起こり、かなり動揺しました。悩んでも、悲しんでも、時間は前にしか進まないので、気持ちを切り替え軌道修正。
続けていたカフェヒロで、永住権のスポンサーになってもらえることとなり、化粧品からレストランの道へ。当時、永住権取得まで通常5年以上かかるといわれていましたが、ブッシュ大統領が移民の政策を簡略化する書類にサインしたこと、また、移民ビザに強い弁護士との出会いがあり、2年で永住権の取得ができると聞かされていました。
しかし、そんな簡単にはいかず、ビザの有効期限のカウントダウンが始まった2005年末。
永住権の申請をキープしていれば、不法滞在にならずそのまま生活ができたのですが、1歩でもアメリカから出国した場合、その後アメリカ入国はできなくなってしまう。
悩んだ結果、2006年6月で日本への帰国を決断しました。
One World, Many Cultures
5年間のアメリカ生活を振り返った時、勉強とアルバイトの毎日で、この経験を活かして日本で役に立つ仕事はなにかあるのか、『こんな自分』を採用してくれる企業はあるのか、『こんな自分』は『どんな自分』か、ぼんやり考え始めました。
9.11の同時多発テロ後、戦争がはじまり、異様な空気を感じた日もありました。人はなぜ怒るのか、敵意を持つのか、攻撃するのか、仲良くする方法はないのか、考えるきっかけになりました。
国際情勢から考える日本の存在を、外から見たことで視野が大きく変わりました。
北朝鮮から日本人拉致被害者が帰国し、尖閣諸島、竹島、北方四島の領土問題など、特に近隣の国との関係が注目されていた2000年代。
アメリカは、生まれも育ちも言葉も異なる人たちが住む移民の国で、人種のサラダボウルとよく例えられます。
黄緑のレタス、緑のブロッコリー、赤いトマト、オレンジのニンジン、白いタマゴと黄色い黄身、カラフルな野菜たちをボウルで混ぜてもそれぞれの味は変わらず、共存しています。
お互い助け合って、喜びを分かちあって、頑張っている人に対しては、相手チームでもスタンディングオベーションで応援する、また、グランドキャニオンやヨセミテなど大自然が残り、人の心も自然のスケールもビッグな国というのがぼくの印象です。
アメリカで過ごした5年、語学学校から始まり、メイクアップ、ビジネス、マネジメント、アカウンティング、マーケティングや国語としての英語やコンピューターサイエンスの授業を受け、毎日新しいことが身についたのは確かです。学問の勉強も大事だったのですが、自分の中身をレベルアップさせてくれたのは、人です。いろいろな人種や国籍の人たちを身近に感じたことでした。
アメリカは肌の色、ルーツ、宗教、国籍、性別、年齢を超えた交流が当たり前のようにあります。
カリフォルニアには、リトルトーキョー、チャイナタウン、コリアタウン、リトルサイゴン、タイタウン、リトルインディア、デニッシュタウンなどが存在し、異国情緒あふれる町まで車で行けます。メキシコやグアテマラなど、ラテン系も多く住み、スペイン語もよく耳にします。
日本に帰り、決定的に変わる環境は、人種のバラエティ。
ぼくがアメリカ生活で学び、心を成長させてくれたことは、バックグラウンドが異なる人たちが一緒に生きる社会の大切さです。
そこで、アメリカ生活の集大成、自分自身への卒業旅行を企画しました。
目指すは、簡単に行けなくなる日本の裏側、カリブ海。
カリフォルニアでは、アジア系の人が周りに多かったのですが、こちらはヨーロッパ文化の島々。
2006年3月、カリブ海のプエルトリコ、セントマーティン島、アンギラへ。
Life is an adventure!
LAからプエルトリコは、キューバ、ハイチ、ドミニカ共和国より遠いですが、アメリカ自治領なので国内線です。主要都市からはフライトも多く、入国審査もないため、とても行きやすい島です。アメリカですが、基本スペイン語の島です。スペインの影響を受けた街並みと食文化、ラテン音楽が聴こえてくる、パワフルで陽気な雰囲気。
セントマーティン島は、プエルトリコから飛行機で約1時間。
小さな島なのに国境があり、北側フランス、南側オランダという世界でも珍しい島です。
フランスとオランダ、パスポートコントロールはなく、行き来は自由ですが、完全に異なる国です。
島国日本で生まれ育ったぼくは、車を運転して国境を越え、外国へいけるなんて不思議な感覚でした。それぞれお互いリスペクトし、フランス側にもオランダ側にもいいところがあるので、両方の国を楽しめるのがセントマーティン島です。
フランス側中心地、マリゴの港からフェリーで20分、アンギラという島に着きます。アンギラはイギリス領。
フェリーには、ビール樽やクーラーボックスを持ち込んだピクニック感覚の乗客も見かけ、テンションあがっていたのか積極的に声をかけました。セントマーティン島在住のフランス人と会話が弾みました。
アンギラに到着すると入国審査があり、パスポートにスタンプを押してもらうので、普通に海外旅行です。セントマーティン島から20分しか離れていないのに、アンギラに入国後、右ハンドルのタクシーが並び、英語を話すドライバーが待ち構えていました。
タクシーに乗り40分、ショールベイという美しいビーチへ行きました。ここは別格の美しさ。
そして、ショールベイのビーチバーで、その時は来ました。
店員に、セントマーティン島でよく見かけるグアバベリーを飲んでみたいと伝えると、ショットグラスで出してくれました。灼熱の太陽のもと、青い海、真っ白なビーチ、最高の雰囲気で、グアバベリーを初めて口にしたのです。美味しいと思ったのはもちろん、直後に不思議な感情のスイッチが入りました。
このグアバベリー、口にしたことのある日本人は何人いるのだろう。日本で飲める場所はあるのか。自分がおいしいと思っても、みんながおいしいと思うかはわからない。ただ、美味しさだけでなく、このお酒を通じて伝えたい、もっと奥にあるもの。
プエルトリコ、セントマーティン島を経由して、小さな船で辿り着いた美しい島アンギラ。カリブ海でアメリカ、スペイン、オランダ、フランス、イギリスを感じ、カリビアンのサラダボウルにも、カラフルでトロピカルな野菜の鮮やかさを発見。
中でも、小さな島を2つの国で分け合っているセントマーティン島産のお酒には、自分の国も相手の国も大切にしているテイストが入っているはず。5年間のアメリカ生活で教わった大事なコンセプトが詰まっているかもしれない。
グアバベリーを口にするまでは全く頭になかった、輸入、ラムの扱い、起業など、壮大なストーリーを、オシャレなビーチバーで考え始めました。
とはいえ、グアバベリーを一口飲んだだけで、日本のラム市場など何も知らず商売を考えるなんて浅はかだし、同じことを考えた日本人も大勢いるのかもしれない。
旅行中なので、あまり深く考えず、ひとつの選択として、ラムの輸入を脳内の新しいファイルに保存しました。
アンギラは日帰り海外旅行でしたので、夕方、セントマーティン島へ戻るフェリーに乗りました。船の中で、行きに会話したセントマーティン島在住のフランス人と再会したので、グアバベリーについて、島の人にとってどんな存在か聞きました。すると、島を象徴する伝統的なお酒であることがわかりました。そして、なんと、その人の友人が以前グアバベリー社で働いていたと言われ、紹介してもらうことになりました。
これが、ぼくとグアバベリーの出会いです。
West Savanna Story
2006年4月上旬、アメリカのウエストサバンナストリートのアパートへ戻り、企画書『Bringing the Guavaberry to Japan』をつくり始めました。カレッジのビジネスの授業でやった企画書作成が役に立つ日がきたのです。
紹介してもらったグアバベリー社の方とはメールでのやりとりのみで、日本への輸出の話は一切せず、商品のことで連絡を取り合っていました。
ついにやってきてしまった6月、日本への引っ越し。アメリカでお世話になった人達とのお別れで毎日人と会い、自分の脚として5万マイル走ってくれた車を売り、免許証の住所変更など慌ただしい日が続き、名残惜しくも帰国しました。
帰国後、現地から持ち帰ったグアバベリーを飲食関係の友達に試飲してもらい、販売価格など市場調査開始。
日本でも気に入っていただけるのではと手応えを感じ、グアバベリー社へメールでコンタクト。そこで初めて、日本での輸入について質問しました。
グアバベリー社の社長から、トライしてみようかとメールが届き、すぐエアチケットを手配し、英語で作った企画書を握りしめ、スーツを着て、7月に再びセントマーティン島へ。
英語の発音がきれいとか、ビジネス英語ができるとか関係ないようで、グアバベリーとセントマーティン島に対する熱い気持ちが伝わったのか、グアバベリーを専門に卸していただける書面にサインいただきました。
帰国後の9月、株式会社ウエストサバンナストリート設立。
社名の由来は、自分を成長させてくれた拠点、カリフォルニア州アナハイムにあるWest Savanna Streetです。
資本金の100万円は、『楽しい』と交換されたチップが原資となりました。
フランスとオランダが領土を分け合うセントマーティン島をヒントに、近隣の国と仲良くする感覚で、自分を見失わず、周りの人と仲良くなる、グアバベリーがそんなきっかけとなるお酒になってもらえるよう、気持ちを込めて活動しております。
サラダボウルのように、カリブ・ラテンアメリカやサルサ、島をテーマにした、各国の文化を楽しめる野外フェスティバルも開催しております
ウエストサバンナストリートは、大きな道を作るのではなく、みなさまの心に通じる道になれたら成功です。
みなさまの楽しいひと時にお供できるお酒やイベントを提供していきますので、応援いただけましたら幸いです。